火祭りの歴史を知ろう

毎年8月26日、27日に行われる「鎮火大祭」は、「吉田の火祭り」と呼ばれ、北口本宮冨士浅間神社と諏訪神社の両社のお祭り。

26日午後、本殿祭、諏訪神社祭が催行され、大神輿、御影は参拝者で賑わう氏子中に神幸。暮れ方に御旅所に奉安されると、時同じくして、高さ3メートルの筍形に結い上げられた大松明100余本、家毎に井桁に積まれた松明に一斉に点火されると、街中は火の海と化し、祭りは深夜まで賑わう。

27日午後、二基の神輿は氏子中を渡御し夕闇迫る頃、浅間神社に還御する。氏子崇敬者が「すすきの玉串」を持ち、二基の神輿のあとに従って高天原を廻ると祭りは最高潮に達する。27日を「すすき祭り」とも称する。

「吉田の火祭」は、毎年8月26日、27日におこなわれる北口本宮冨士浅間神社と諏訪神社の両社のお祭りです。
元来、火祭は、浅間神社ではなく、諏訪神社の祭礼であり、『甲斐国志(かいこくし)』においては、”上吉田(かみよしだ)村諏訪明神の7月22日の例祭として町中で篝火(かがりび)を焚く”とあり、上吉田の産土神(うぶすながみ)であると記されています。火祭は諏訪神社の神主である佐藤家を中心とした諏訪神社の祭りでしたが、浅間神社の社司(しゃし)や御師が関わるべき祭りでもあったことを伝えています。

26日午後、本殿祭(ほんでんさい)の諏訪神社祭が催行され、大神輿(おおみ こし)・御影(みかげ)は参拝者で賑わう参道を下って表通りに出て、氏子町内を一円します。暮れ方に御旅所に奉安(ほうあん)されると、時同じくして、高さ3メートルの筍形に結い上げられた大松明90余本、家毎に井桁(いげた)に積まれた松明(たいまつ)に一斉に点火されると、街中は火の海と化し、祭りは夜遅くまで賑わいます。

27日午後7時頃、2基の神輿は氏子中を渡御し夕闇迫る頃、浅間神社に還御(かんぎょ)します。氏子崇敬者が「すすきの玉串(たまぐし)」を持ち、二基の神輿のあとに従って高天原(たかまがはら)を廻ると祭りは最高潮に達します。27日を「すすき祭り」ともよんでいます。夕闇の境内を神輿と見物客とが一体になって廻るさまは荘厳の一語につきます。

記録によると、諏訪神社は今から約500年以上前からあることがわかっています。「吉田之新宿帳(吉田のしんじゅくちょう)」という上吉田の町が新しくできたことを記録した元亀(げんき)3年(1572)の資料には、神輿が通る道のことがかかれているので、約400年以上前にはすでにお祭りがおこなわれていたと考えられています。

また、富士山型の御影(御山神輿)も約400年以上前からかつがれていたことが古い記録から推定されています。

上吉田地区等では、諏訪神社に関連した火祭りの起源伝説が伝えられています。
長野県の諏訪大社では諏訪明神が蛇体(じゃたい)となって現れるとされますが、上吉田でも蛇に関する伝承があります。火祭の神輿は神社を発って上吉田の上宿から下宿に下りて行きますが、このとき神輿とともに白い蛇神(へびがみ)や竜が上吉田の街を上から下へと下って行くといわれます。そのため、御師(おし)の家では、火祭り当日の朝に、屋敷地内に流れる川を清掃し、蛇神の通りを迎えます。これを「白蛇様(しろへびさま)のお下り」といいます。火祭の時は白い蛇が東の川を下り、黒い蛇が西の川を上るから、祭りの時には川を使ったり汚してはいけないといわれています。

また、上吉田で富士道場と呼ばれた時宗の西念寺(さいねんじ)がかかわる火祭りの起源伝承が残されています。
昔、西念寺の僧が信濃(しなの)の諏訪に修行に行って帰ってくるときに、木の枝を折って竜を作り、それを諏訪神社に祀り、竜を杖の頭に入れて燃やしたのが火祭りだといいます。また、昔、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)が信濃の諏訪から吉田まで来る時に、諏訪明神が遊行上人について来たので、遊行上人は「吉田はよい所だから」と、諏訪明神を今の諏訪の森に置いて、藤沢(清浄光寺)へ行ってしまったという話です。

神道説では、諏訪大社の祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)であり、『古事記』上巻によれば、国譲りの力比べに負けた建御名方神は、科野国(しなののくに・信濃)洲羽海(すわのうみ・諏訪湖)追い込まれたというものです。そこで、建御名方神が戦をするときに、松明を燃やして戦ったので、その由来で火祭りを行うという説も上吉田ではいわれています。このことは、明治42年の中谷竹蔵『霊山富士』に、建御名方命すなわち諏訪神が、戦に敗れて敗走しこの地に至った時に土地の者に命じて無数の炬火を燃やさせたところ、寄せ手の軍はこれを援兵と見て囲いを解いて去った。これが7月21日の夜だったというと説かれています。

一方では、浅間神社に関連した火祭りの起源伝説が説かれました。
上吉田の浅間神社は富士山を神格化した浅間神を祀っていますが、神道説での祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と説かれています。
『古事記』上巻の神話では、邇邇芸命(ににぎのみこと)との一夜の交わりで妊娠した木花開耶姫命は、邇邇芸命に疑われたので、身の証しをたてるために出入り口のない産屋をつくり室内を壁土で塗り込め、その産屋に火を放ち燃えさかる火中で、無事三人の子を産んだというものです。そのため、浅間神社の祭神の神徳(しんとく)は火伏(ひぶ)せ・安産・災厄除け・産業守護などといわれています。そこで、神道説で説く火祭の起源は、猛火の中で出産した木花開耶姫命の故事になぞらえて火を焚くのだといわれようになりました。現在、広く知られている起源伝説は、浅間神社の祭神と火祭との関係を説くこの伝説となっています。

火祭り開催日の変遷

明治5年に暦法が改められ、太陰暦から太陽暦となりましたが、明治時代を通じて火祭りは陰暦7月21日、山仕舞は陰暦7月26日として行われてきました。

『山梨日々新聞』の記事で当時の祭日を新暦で拾うと、明治18年は9月1日、明治20年は9月8日、明治41年は8月19日となりますが、いずれも陰暦7月21日です。
太陽暦では8月中旬から9月上旬に相当し、祭日が毎年変動しました。

そこで明治末期からは新暦での祭日に移行して固定化する動きが出てきました。
明治43年には火祭は陰暦7月21日の月遅れとして、8月21・22日におこなわれました。大正元年の社司・氏子総代の合議では、火祭を新暦9月9・10日としましたが、議論が一致せず、大正2年8月には火祭を新暦8月30・31 日、山仕舞を9月10日と決定しました。

ところが、8月30日は市町村の計算日になるため、参詣人が少なくなることから、大正3年5月の合議で火祭りを陰暦7月21日に戻すことにした。
しかし、その直後の同年8月の合議で、火祭は8月26・27日と決定されました。

このようにして、祭日が陰暦7月21日から新暦8月26日に変化し、固定化しました。

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