1,000年以上続く織物の名産地の歴史と今をご紹介
1,000年以上前の平安時代から織物の名産地として広く知られてきた富士吉田。現在も多くのファクトリーブランドが集積する"ハタオリマチ"ですが、現在に至るまで山あり谷ありの歴史を歩んできました。ハタオリマチができるまでの軌跡をご紹介します。富士吉田は日本屈指の"ハタオリのまち"
富士山の麓に位置する富士吉田市は、古くから織物の名産地として知られています。豊富で綺麗な湧き水が使用できたこと、農業に不適な環境のために養蚕に力を入れていたことがその理由だとされ、現在では日本屈指の織物の産地になっています。近年では各工場がオリジナルブランドを立ち上げ、直販を展開。古くから続くハタオリマチに新しい風が吹いています。各社が工場見学や直営店をオープンする毎月第3土曜日の「FACTORY SHOP OPEN」や、毎年10月に開催されるハタオリの祭典「ハタオリマチフェスティバル」など、イベントも定期的に開催。多くのオシャレ好きがハタオリマチに集まっています。
ハタオリマチ・富士吉田のファブリックの特徴をご紹介
硬度の低い富士の天然水を使用する富士吉田の染色は、発色の良さが際立ちます。また、非常に難易度の高い技術である、先染め・細番手・高密度という技法を用いることで、抜群の手触りと高級感を生み出しています。
発色がよく色落ちしにくい「先染め」
軽くきめ細かな質感を生み出す「細番手」
立体感ある鮮やかな模様を実現する「高密度」
ハタオリのまちはここから始まった!2,000年以上前の「徐福伝説」
富士吉田のハタオリの起源は2,000年以上前の紀元前約200年、中国では秦の始皇帝が君臨していた時代にまでさかのぼります。始皇帝から不老不死の薬を探すように命じられた徐福は、財宝を積んだ大船団を組んで日本に渡来しました。不老不死の薬を探す徐福は日本全国を探し回ったと言われており、北は青森から南は鹿児島まで伝説が残っています。徐福は最後に富士吉田にたどり着き、薬を探す傍ら村の住民に養蚕やハタオリの技術を教えたと言い伝えられています。徐福の墓だと考えられる場所や、徐福を祀った徐福雨乞地蔵祠が今でも富士吉田に残されており、地元の人々から感謝されていることが伺えます。
1,000年以上前の平安時代には織物の一大産地に!
1,000年以上前の平安時代、「延喜式(967年)」と呼ばれる法律の中で「甲斐(山梨)の国は布を納めること」という旨の記述があります。これは、山梨県と織物の関係性を明確に知ることができる一番古い記録で、当時の政府からも認められた機織りの名産地であったことがわかります。 世界的にも1,000年以上の歴史を持つ機織り産地は珍しく、山梨県の東部地方(郡内)で生産された織物は「郡内織物」「甲斐絹」と呼ばれ、現代にいたるまで多くの人々の手に触れてきました。
織物の高級ブランドとして地位が確立した江戸時代
江戸時代になるとその技術や品質の高さから高級織物の産地としての地位が確立した郡内織物。中でも、オランダ人がもたらした「近渡裂(ちかわたりぎれ)」と呼ばれる先染めの織物を研究して生まれた「甲斐絹」が注目の的となりました。何度も贅沢を禁じる法律が施行され、好みの服をまとうことができなかった江戸っ子たちは、織物の内側を装飾することでオシャレを楽しみました。そこで重宝されたのが「甲斐絹」。美しい発色と柄の甲斐絹は羽織の裏地として大人気となり、井原西鶴の「好色一代男」に郡内縞(縞模様の織物)として登場するほどでした。
ハタオリの苦難 織機が強制徴発された苦難の歴史
江戸時代から高級織物の産地として栄えた富士吉田でしたが、第二次世界大戦が始まると状況は一変します。軍需品を作るために日本全国から金属がかき集められ、富士吉田からは織機が徴発されました。その数はなんと約9,300台にも及び、一時は生産不能の状態に陥ってしまいました。
戦後には織れば儲かる「ガチャマン」時代が到来!
終戦後、織機を取り戻した富士吉田は「ガチャマン」時代と呼ばれる黄金の時代を迎えます。「ガチャッとひと織りすれば1万円儲かる」と言われたほど景気の良い時代が訪れ、働き手となる織り手が不足して「織姫」と呼ばれる機織り工場で働く女性の争奪が起きたほどでした。戦時中の不遇の時代から完全に立ち直り、絹織物問屋が集まる絹屋町では毎月1と6のつく日に市場が開かれて全国から商人が集まるように。街全体も活気づき、下吉田地区の繁華街「西裏」は連日多くのお客さんで賑わったそうです。郷土料理「吉田のうどん」が有名になったのもこの時期で、機織りをする女性に代わって男性が腹持ちの良いうどんを作るために力一杯うどんをこねたことから硬いうどんが誕生したと言われています。
ハタオリの苦難再来 外国産の安い織物が流入
「ガチャマン」と呼ばれるほど栄華を誇った富士吉田ですが、外国から安い織物が大量に流入するようになると状況は一変します。近代的な設備を導入していたとはいえ、甲斐絹をはじめとする高品質な織物はどうしてもコストや手間がかかってしまうもの。消費者が海外の安い織物を購入するようになると機屋は大打撃を受け、次々に機屋が廃業するようになりました。追い打ちをかけたのが織機共同廃棄事業と呼ばれる、織機の打ち壊し運動。売り上げの減少や貿易摩擦に伴う生産調整から機屋を畳む人々が次々と現れ、なんと織機は約7,200台、撚糸機は約740台が壊されてしまいました。これは当時の織機の約4割にも及び、ハタオリマチの衰退を象徴しました。
ハタオリマチ復活へ 技術を武器に立ち上がった機屋たち
機織産業が衰退する中、立ち上がる人々がいました。機屋を継いだ2代目、3代目の職人たちです。1,000年以上の間紡がれた高度な技術を生かし、他のブランドへ生地を提供するだけでなく、オリジナルブランドで市場にも参入、勝負に出ました。県内外のデザイナー、山梨県富士工業技術センター(通称シケンジョ)、東京造形大学など、多くの人々の協力で、次々と新しい商品が世に生み出されています。 毎月第三土曜日には、工場見学や各社のオリジナル商品を直接手にできる「OPEN FACTORY」を開催。10月には全国のファブリック製品が一堂に会す「ハタオリマチフェスティバル(通称ハタフェス)」を開催し、ワークショップや体験を通じて、ハタオリマチの魅力を肌で感じることができます。